跨语言文化研究(第14辑)
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3.日本語の平行リングモデルと中国語の多重リングモデル

3.1 日本語の平行リングモデルの基本構成

于(2009:23—39)では、日本語が平行リングモデル、中国語が多重リングモデルであることを提案している。そして、日本語と中国語の間に存在する語彙や文に含意されるプラグマティクスの意味の違いは、この平行リングモデルと多重リングモデルで説明できる場合が多いと考えている。平行リングモデルと多重リングモデルの構成は次の通りである。

日本語の平行リングモデルは図1である。

図1 平行リングモデル

AとBは接触こそしているが、重なってはいない。AはAの縄張りを意味するのに対し、BはBの縄張りを意味する。AにとってBはソトの関係にあり、BにとってAはソトの関係にある。Aのリングに属する人や事物すべてがAにとってはウチの関係にあるが、Bにとってはソトの関係にある。同様に、Bのリングに属する人や事物すべてがBにとってはウチの関係にあるが、Aにとってはソトの関係にある。つまり、Aにとっては、Aがこっちの世界、Bがそっちの世界であるのに対し、Bにとっては、Bがこっちの世界、Aがそっちの世界である。黒い部分はAにとってもBにとってもヨソである。このヨソは、神尾(1990)のDに相当する。ソトとヨソを同一視する説もあるが、神尾(1990)の指摘やこれまでの用例を見てみると、必ずしも相手の縄張りに侵入していない用法も確かに存在する。これについては、他稿に譲る。

AとBとの関係は大きく分けると、2種類ある。一つは、縄張りの侵入型である。もう一つは、縄張りの明示型である。縄張りの侵入型には2種類ある。一つは、動作行為や言論が直接的に相手の縄張りに入ってしまう侵入であり、もう一つは、動作行為や言論が間接的に相手の縄張りに入ってしまう侵入である。例えば、聞き手にジュースを買ってもらったり、休み中の聞き手に手伝ってもらったり、道を尋ねたり、親が子供の部屋に入ったり、聞き手のことを誤解してしまう発言だったりする動作行為や言論は、直接的に相手の領域に関わっているので、相手の縄張りの直接侵入である。他方、席を譲られたり、お茶を持ってきてくれたり、けがをして他人に助けられたり、自分のことを心配してくれる相手のメールだったりする動作行為や言論は、話し手が自ら進んで行ったものではないとはいえ、間接的に相手の領域に関わってしまうので、相手の縄張りの間接侵入である。縄張りの明示型とは、文に登場する人や物事について、話し手が自分の縄張りに属するものとして見なすか否かをことばで示すことである。例えば、誤用例の(2)のように、「おれ」を使うと、聞き手が自分の仲間であり、親しい関係にあることを意味することになる。聞き手は、話し手とは初対面の関係なので、いきなり話し手からウチの関係とされてしまうと困惑してしまうであろう。誤用例の(4)も同様である。「どうぞよろしく」も同じ縄張りにあることを意味する場合が多いので、初対面の人に対しては使わない。(12)と(13)において、中国語母語話者日本語学習者は、「それ」を使うべきところに「これ」を使ってしまったのも縄張りの明示型の間違いである。

縄張りの侵入型と縄張りの明示型は日本文化の発想である。従って、日本語において、故意か不本意を問わず、直接的か間接的に何らかの形で相手の縄張りに入ってしまった場合、図2のように、ことばかジェスチャーの救済が必要になってくる。

図2 平行リングモデル

例えば、電車の中で、席を譲ってくれた人に、「ありがとうございます」よりは、「すみません」の方が好まれるのがそれである。その人が座っている席は、その人の縄張りにあり(一時的であっても)、譲られたことによって、間接的に自分が相手の縄張りに入ってしまうことになる。この「すみません」は、中国語の“对不起”に相当しない表現である。道を尋ねるときや落とし物を見て前の人に呼び止めるときなどにもよく使われている呼びかけ語の「すみません」も同じであろう。突然、他人に話しかけることや呼び止めることは、間接的にその人の縄張りに入ってしまうので、「すみません」になる。しかし、電車の中で席を譲ってくれたのが自分の部下だったり、身内の人だったりする場合は、「すみません」は使わない。使うとすればせいぜい「ありがとう」であろう。部下に道を尋ねたり、身内の人の落とし物を見て呼び止めたりする場合なども「すみません」は使わない。「すみません」の使用も可能ではあるが、その場合、ウチの関係でなくなり、ソトの関係になってしまうということになる。

これまでは、ウチの関係とソトの関係に触れてきたが、一つ大きな問題がまだ残っている。これは、ウチの関係とソトの関係について何を基準にして判断するかである。ウチとソトの基準について、牧野(1996:11—12)では、次のように述べられている。

私はたった今、ウチという空間は「かかわりの空間」と定義しましたが、ウチの空間では、人々はまさに視覚、聴覚、喫覚、味覚、触覚という五感を使って、直接的なかかわりが持てるのです。ウチの空間にいてこそ、私たちは、その中の生物、無生物を見て、その言語音、非言語音を聞き、その匂いを嗅ぎ、時にはそれを味わい、触って、その存在を確かめる、ということができるのです。五感でのかかわりの持てない空間がソトで、ウチの人はそういうソトの人とは異なる、共通の判断力を持っているはずです。

しかし、上の用例分析からもわかるように、ウチの関係は必ずしも直接的な関わりをもつものだけではない。筆者は、牧野(1996)の定義とすこし異なる、神尾(1990,2002)を踏まえた上で、次のように定義したい。

(22)ウチの関係とは、話し手の領域内のことであるの対し、ソトの関係とは、話し手の領域以外のことである[16]。ウチの関係とソトの関係は相対的な概念である。話し手が発話時の気持ちや様々な状況によって判断されるものである。話し手がウチの関係にあると思う人や物事ならウチの関係となり、話し手がソトの関係にあると思う人や物事ならソトの関係となる。ウチの関係とソトの関係はタマネギ式である。タマネギの芯が話し手自身である。その外側が、一親等、二親等、三親等、親友、知り合い、友達、同僚、上司や目上の人、違う学校や職場やグループの人、友達ではない人、初対面の人などといった順でウチとの関わりの度合いから、ウチの関係からソトの関係に変わっていく。即ち、ウチの関係とソトの関係は、階層的であり、それを決めるのは話し手である。

例えば、一親等がデフォルト的にはうちの関係にあるが、兄弟間であっても、親子関係であっても、借金する時はウチの関係からソトの関係に変わる。上司はデフォルト的にはソトの関係にあるが、他社の人に対して言う場合は、ウチの関係に変わる。日本語には、(いわゆる)標準語と方言があり、文体的には、ため口ことばと敬語[17]がある。距離のある人に対しては、標準語と敬語を使うが、距離の近い人か距離ゼロの仲間に対しては、方言とため口ことばを使う。つまり、距離が近ければ近いほど、方言やため口ことばが使われやすくなるのに対して、距離があればあるほど、標準語や敬語が使われやすくなるのである。日本語の敬語は、聞き手や参加者に敬意を表するために使われるというよりは、むしろ、その人との距離を示すために使われるものであると解されるべきである。次の誤用例は、その距離の捉え方が間違っているものである。

(23)お忙しいところに私の文章を直して<くれて→いただき>、誠にありがとうございました。いろいろ面倒を見て<くれて→いただき>、深く感謝いたします。(M1/学習歴5年/滞日1年)

(24)私はちちからノートパソコンを<いただきました→もらいました>。(学部1年生/学習歴6ヶ月/滞日0)

(23)は指導教員への感謝のことばである。「ていただく」は、距離のある人に対して言う表現であるが、「てくれる」は、距離が近いか距離ゼロの人に対して言う表現である。「てくれる」は使用不可ではないが、それを使ってしまうと、教員と学生との関係が非常に近いということを示唆することになる。(24)は自分の父からもらったものなので、「いただく」を使うと、距離が感じられる言い方になり、不自然である。

2.で取り上げた日本語の指示詞の用例は、そのほとんどがこのモデルで説明できる。「コ」はウチの関係にあることを表し、「ソ」はソトの関係にあることを表すものである。物理的な距離が近くても、話し手はソトの関係として捉えるなら、「ソ」が使われる。逆に、物理的な距離が遠くても、話し手はウチの関係として捉えるなら、「コ」が使われる。

3.2 中国語の多重リングモデルの基本構成

日本語の平行リングモデルと異なり、中国語は多重リングモデルである。于(2009:23—39)では、図3のように示している。

図3 多重リングモデル

Bのリングは、無数のAから構成される。Bの領域に存在するAは独立してはいるが、すべてBの構成員である。Aを出ても、図4のように、Bという大きなリングに入るだけで、他人の領域には侵入しないことになる。このBはまるで一つの大きな家族のような構図である。論語の“四海之内皆兄弟(《论语 颜渊》世界中の人が兄弟である)”ということばのように、日本語のようなウチの関係とソトの関係の発想は、中国語には見られない。

図4 多重リングモデル

従って、電車の中で席を譲られた時や、先生がドアを開けてくださった時などは、“对不起”と言わず、“谢谢”と言う。“不好意思”という言い方もあるが、これは決して謝る表現ではなく、「恥ずかしいです」とか「恐縮です」とか「おそれいります」といった意味になる。道を尋ねる時も、他人の足を止めたとしても、他人の縄張りに侵入したという意識がないため、“对不起”とは言わない。落とし物を見て他人を呼び止める時、中国語ではどのような呼びかけ語を使えばいいのか難しい。呼び止めることが間接的に他人の縄張りに入ってしまうという発想はないので、そのときの状況に基づき、呼び掛けことばを選択するが、決して“对不起”とは言わない。

ただし、図5のように、明らかに相手の縄張りに侵入したとなると、そのときになってはじめて“对不起”と言う。

図5 他人の縄張りに侵入

中国語の多重リングモデルにおいては、他人との関わりよりも個々の領域のことの方が重要視されている。Aを出ても必ずしもBの領域に入るわけではないので、中国語には、縄張りの侵入型がそもそも存在しないと言えよう。人や物事が話し手との関係を示す表現は、中国語にもあるが、ウチの関係とソトの関係という視点からのものではなく、話し手自分自身との関わりを中心とするものである。例えば、

(25)平时我上班,家中只有老与小,他们之间那些破事也只有他们俩说得清,我累了一天,回家懒得听双方毫无逻辑的即兴汇报。(叶广岑《女儿顾大玉》)

(26)他们生意谈不谈得成,跟我有什么相干,更碍不着您呀!早知道这样,我才不管他们这些破事儿呢……(谌容《梦中的河》)

における“那些(破事)”と“这些(破事)”の違いは、話し手自分自身がどの程度関わっているかを示すものであって、その“破事”をウチの関係にあるかソトの関係にあるかという視点から捉えているものではない。

上の木村(1997)が挙げた(7)において、“是敬神的食盒。”を日本語では「コ」ではなく、「そらア,ま,祭りの重ね鉢だが」のように「ソ」で表現している。ここに正に「祭りの重ね鉢」における話し手の捉え方の違いが表されている。中国語では、「祭りの重ね鉢」が“赛金刚”のところに移ったとしても、話し手の乙から遠く離れたところにあるわけではなく、目の前にありつまり自分の領域範囲内にあるので、“那”ではなく“这”で表現される。一方、日本語は異なる。「祭りの重ね鉢」は、すでに乙から“赛金刚”のところに移り、所有物の所有者(縄張り)が変わりつまり乙の縄張りになく、“赛金刚”の縄張りに変わったため、乙はウチの関係を表す「コ」は使えない。ソトの関係を表す「ソ」で表現するしかないのである。(8)も同様である。

また、日本語の用例(7)「これを使って写真の修復をしてくれたのだなと思った。そのことを考えると、こんなことをしていることが後ろめたくなった。」において、パソコンは物理的に話し手の和佳子の所有物ではなく、手元にあるわけでもないにもかかわらず、「これ」で表現できるのはパソコンそのものを指示するのではなく、パソコンを使って修復した写真は和佳子の写真なので、和佳子とはウチの関係にあるということを示すためである。その続きに、「このこと」ではなく、「そのこと」が使われるのは、パソコンの持ち主が写真を修復する作業の行為が和佳子にとってウチの関係にある行為ではなく、ソトの関係にある行為だからである。最後にまた「コ」に戻ったのは、「こんなこと」で表現するのは話し手自身の行為を指示するからである。しかし、ここの「これ」「そのこと」「こんなこと」は、中国語の指示詞で表現するとすれば、いずれも“这”であって、“那”ではない。