
1.問題提起と研究目的
エドワード·T.ホール(1979:107—109)では、文化のことを、高コンテクスト文化(high-context)と低コンテクスト文化(low-context)に分類している。高コンテクスト文化とは、「情報のほとんどが身体的コンテクストのなかにあるか、または個人に内在されており、メッセージのコード化された、明確な、伝達される部分には、情報が非常に少ない」ものであるのに対し、低コンテクスト文化とは、「まさにこの反対である。つまり、情報の大半は明白にコード化されている」ものである[2]。つまり、高コンテクスト文化に属する言語は、コード化されたことばそのものに加え、その言語の背景にある非言語的要素を取り入れて総合的に判断しなければ、理解できないことが多い。それに対し、低コンテクスト文化に属する言語は、言語の曖昧性がなく、非言語的要素に依存することなく、文字通りに的確に理解できるものである。定義的には、前者は制限コード(restricted code)と、後者は精密コード(elaborated code)[3]と似通ったところがあるが、根底が違うし、対象も異なるため、本研究では両者を異なるものとして見なすこととする。
エドワード·T.ホール(1979:77,108)では、中国文化と日本文化をともに高コンテクスト文化であると指摘している。ことばが文化の投射物でもあるという視点からすれば、中国語も日本語も高コンテクスト文化を背景とする、曖昧性を有し、非言語的要素に依存し、暗黙の了解といった既有知識を重視し、すべての内容をはっきりとことばで表現しない言語となる。しかし、以下の用例からもわかるように、日本語と中国語は、両者とも高コンテクスト文化を背景とする言語ではあるが、それぞれの振る舞いは必ずしも同じではない。つまり、縄張りの意識や、聞き手·参加者への配慮、物事の捉え方について異なるところが多いのである。
(1)先生の研究分野にもっとも向いていると思いますので、もしできれば、先生のゼミにしたいです。よろしくお願い申し上げます。(M1/学習歴4年/滞日0)[4]
(2)食堂でおれの一番好きな料理はラーメンです。それはほんとうに美味しいです。ほかに、おれたちの学校も美しいです。おれは大学が大好きです。これからも一生懸命勉強します。(学部1年生/学習歴半年/滞日0)
(3)この夏休み、となりのおばさんの親戚が遊びに来た。この親戚の子供が日本生まれで日本育ちなので、全然中国語が話せない。しかも勉強したくなく、日本だけがいいと思っている。「仕方がない。」とこの子の親が言った。(学部3年生/学習歴3年/滞日0)
(4)わたしは中北大学の新入生です。どうぞよろしく。(学部1年生/学習歴1年/滞日0)
(5)このところずっとお忙しかったですが、くれぐれもご自愛くださいますようお祈り申し上げます。(中国大学日本語教員/学習歴17年/滞日半年)
(1)—(5)はいずれも中国語母語話者日本語学習者の作文に見られた誤用である。
(1)における「先生のゼミにしたいです」という表現は、面識のない教員に届いたメールの内容である。文法的に許容されるとしても、意味的には上から目線で、自分の縄張りに突然土足で踏み入れられる感が強く、その教員はあまりいい気分にはならないであろう。「先生のゼミにぜひとも入れていただきたいです」とか「先生のゼミに入らせていただけないでしょうか」とかといった距離感のある表現が望まれる。
(2)は一年生の学生が書いた大学の紹介文である。人称詞の使い方に大きな問題がある。確かに、「おれ」という人称詞は一人称を表すことができるが、日本語の人称詞には言外の意味が強く含まれており、聞き手との人間関係を踏まえずに使うことはできない。ここの「おれ」は初対面でもよく使われる「わたし」としたい。
(3)は指示詞の誤用である。日本語の指示詞は、中国語の指示詞と違って、参加者や物事との親疎関係や縄張りの関係も含意されている。(3)に登場した子供は、となりのおばさんの親戚の子供であり、その子供とその子供の親は話し手の親戚でもなければ、親友でもなく、面識のない人達である。この場合は、「コ」ではなく「ソ」の方が自然である。「ソ」であれば、自分の縄張りに属さない人や物事を表すことができる。
(4)は一年生の学生が新歓コンパで行った自己紹介である。参加者とはほとんど初対面なので、いきなり親しい人間関係でしか使わないため口ことばの「どうぞよろしく」だと、上から目線や失礼なイメージになりかねない。初対面でよく使われる「どうぞよろしくお願いします」を使いたい。
(5)はベテランの現役の日本語教員の誤用である。「お忙しかった」には、「お」がついていることから、相手に敬意を込めていると勘違いをしてしまった好例である。いくら「お」がついたとしても、相手のことを断定的に言うのは日本語としては好まれる表現ではない。「お忙しそうでした」のように、相手の様子を推測的にまたはそのように見えるといった表現の方が望まれる。
(1)—(5)は、日本語では誤用であるが、中国語では同じ内容を表現するとすれば、いずれも不自然な表現にはならない。于(2009:30—32)では、日本語の否定文と中国語の否定文のデフォルト的な意味について、次のように指摘している。例えば、食事を誘う時、日本語では、「食堂行かない?」のように否定疑問文を使うのが好まれるのに対し、中国語では、“你去食堂吗?(あなたは食堂へ行くか?[5])”のように、肯定疑問文を使う方が好まれる。日本語では「食堂行く?」のように肯定疑問文、中国語では“你不去食堂吗?(あなたは食堂へ行かない?)”のように否定疑問文を使うこともあるが、人間関係とそこに含意される言外の意味が異なる。日本語の「食堂行く?」は、よほど親しい間柄でなければ、安易には使わない。これが反語の意味として読み取れる場合もあるからである[6]。中国語の“你不去食堂吗?”も「食堂行くべし」という反語の意味合いが含まれやすい。つまり、日本語の肯定疑問文と中国語の否定疑問文とでは、言外の意味が異なるのである[7]。
日本語の「すみません」「ありがとう」と中国語の“对不起”“谢谢”との違い、日本語の「すみません」と「すみませんでした」との違い、「ありがとうございます」と「ありがとうございました」との違い、日本語の否定文と中国語の否定文のプラグマティクス的な意味の違いなどについて、于(2009:23—39)では、日本語が“双圆模式(平行リングモデル)”、中国語が“套圆模式(多重リングモデル)”であるといった文化モデルを提案し、解釈を試みた。しかし、それは、ひな形であり、しかも中国語母語話者日本語学習者の日本語の誤用も視野に入れていなかったため、いくつか課題が残り、更に掘り下げ、検証する必要がある。そこで、本研究は、中国語母語話者日本語学習者の日本語の誤用を対象に、プラグマティクスの用法からみる日本語と中国語との異同に着目し、これまでの研究を踏まえた上で、日本語の文化モデルと中国語の文化モデルを再検証し、その有効性と有用性を明らかにしたい。